ブルーに伝えて

⒈となりの家に昔いた犬だとか

 

となりの家に昔いた犬だとか、そういうものを思い出すと少し切なくなる。自分の犬ではないので死んでしまっても泣いたりはしなかったが、ただなんとなく、「もういないんだなあ」と思うのだ。それは、犬への愛情から来る感情でもあったが、それよりも、過ぎ去ってしまった月日への、かけがえのない思いだった。

 

 

となりの家の庭にある、小さな赤い屋根の城にブルーは住んでいた。城とはいっても、ベニヤ板で作られた粗末な家は長年の雨風や夏の強い日差しのせいで色あせて、ひどいボロだった。わたしは毎日学校への行き帰り、かならずそのボロ屋を眺めて、「あいかわらずぼろい、かわいそうに」などと勝手に思っていた。そして、そういえば小学生の頃はあの屋根はまだ綺麗な赤だったな、と経った月日へ思いを馳せた。

 当の城の主はといえば、朝は全く姿を見せないが、夕方になるとぼろ屋の外で丸くなっていた。犬種は見たところによると柴犬のようだったが、それにしては毛が長いようにも見えたので雑種なのかもしれなかった。わたしが物心ついた頃からそこにいるので結構な老犬だ。普段全く動かない割には真っ黒な澄んだ目をたたえていて、老犬にしてはどこか若々しい気がした。となりの家を通りがかる人がみな「ブルー、ブルー」と呼びかけるので、私もブルーと呼んでいる。けれど、茶色い毛の彼が何故ブルーなのか(そもそも青い毛の犬って?)は誰も知らない。

 

ブルーのご主人である佐藤さん夫妻も、実のところブルーの名前の由来については知らないようであった。佐藤さんは若くて感じの良い夫婦で、奥さんはその頃大きなお腹をしていた。奥さんは、わたしが高校生の頃学校へ行くときは必ず庭の花へ水やりをしていて、ニコニコしながらいってらっしゃいと言ってくれた。元々は佐藤さんの母親も一緒に住んでいたらしいのだが、滅多に外に出ない人だったので私も見たことがない。ブルーをブルーと名付けたその母親が随分前に他界してからは家をリフォームして、若い2人と一匹で暮らしているらしかった。

 

ブルーは特別人懐っこいわけでも、何か芸をするわけでもなく、いつもただそこにいるだけだ。けれど、近所の人は皆ブルーを可愛がって、しっとりとした毛並みの丸くなっている彼のことをよしよしと撫でる。私もブルーのことをよく撫でるが、ブルーは何も言わず(もちろん言うわけないのだが)おとなしくしているのだった。黒い瞳はいつもきらきらとしていて今にも喋り出しそうな顔をしていた。「わたしはあなたの言う事をわかっていますよ」と言ってくれそうな、聡い雰囲気があったのだ。そういうところが、皆大好きだったのだと思う。

 

そんなブルーは、私の知らない間に死んでしまった。

それを私が聞いたのは、初夏の本当によく晴れた日で、その報告の、夏に向かって陽気になっていく気候とのあまりの差に、初め私は信じる事ができなかった。

 

その頃私は東京の大学に通っていたが、夏休みに入り実家に帰省していた。私は、滅多に帰省しない親不孝な一人娘であったので心配性の父母は帰省する度私を構いたがるのだが、うっとおしかった私は帰省してもちょくちょく遊びに出かけていた。その日は特別友人との約束もなく暇だったので、ちょっくら散歩でもするかと思いサンダルをつっかけ外に出たのだった。午後2時、一番暑い時間帯に出かけた馬鹿な私は玄関を開けた途端耳に入るセミの鳴き声にうんざりしつつ、アイスでも買おうと意気込んで歩いていると、向こうから佐藤さんの奥さんがやってくるのが見えた。

「あらあ、○ちゃん帰ってきてたのね〜おかえりなさい。いやあ暑いわあ」

汗をぬぐいぬぐい佐藤さんが言うのに相槌を打っていると、ふと目がそのふくらんだお腹に行った。

「あれ、もしかして…?」

すぐその意味に気付いた佐藤さんは、そうなの、きっと女の子!と笑った。

「じゃあ□くん妹ができるんですね。いいなあ兄弟。」

「○ちゃん一人っ子だものね。でもこの子もブルーに会えたらよかったのになあ」

「え?」

「あら!そうか!○ちゃんしばらく帰ってきてなかったものね?ブルー、実は少し前に死んでしまったのよ。」

 ええ!?と驚いたが、急に泣き笑いのような顔を浮かべた佐藤さんを前にあまり大きな声も出せず、「2か月くらい前かな。ブルー、もう本当にいいおじいちゃんだったから…うちのおばあさんの頃から居たでしょう。○ちゃんも、可愛がってくれてありがとうねえ」と言われ、

「そうなんですか…」というほかなかった。そして、きれいな瞳とは裏腹によぼよぼとしていたブルーの事を思えばそれも当然のように思えたので、往生したのだな、と半ば尊敬するような気持ちでいた。

「寂しいですね…生まれてくる赤ちゃんも、きっと仲良くなれただろうにな。」

私が言うと佐藤さんはもう随分大きなお腹を愛おしそうに撫でながら、そうね、と悲しそうに微笑んだ。

 

その後私はなんとなくアイスを買いに行く気にもなれず、近くの公園でだらりとベンチに座っていた。頭の中では、そうかあ死んじゃったんだ、ということばかり思い浮かべていた。幸い私の近しい身内はまだまだ元気いっぱいで、私は人が死んで涙を流す、という経験をこの年になってもしたことがない。母方の祖父母はまだ元気だし、父方の祖父母は私が生まれる前に亡くなっている。友達も、学校の恩師も、みんなずっと変わらず生活している。だから、なんとなく、自分は別れの悲しみも知らず、まだまだ子供であるのだという思いが強い。周りの同じ年頃の子は、「おばあちゃんが死んじゃって…」と言って高校の頃は忌引きをしていた子も少なからずいた。しかし数日もすると学校でたわいない話で笑いあったりするのだ。元気になった友達は以前と変わらないように見えたが、わたしには、悲しみを知った、少し大人の顔に見えた。わたしはおばあちゃん子なので、おばあちゃんがもし死んでしまったら、と考えるだけで気が狂いそうになる。みんな、どうやって悲しみを乗り越えているのだろう。私には想像ができない。この年になっても。

 今はジージーとうるさいこのアブラゼミたちも、短い命でもうじき死んでしまうのだ、寛容にならねば、と暑さで少し脱線しつつ、しかしあのブルーのような瞳を持つ犬に他に会った事がなかったので、ブルーが死んでしまって、とても惜しい気分だった。

 

主人がこの世から去った後も赤い屋根は佐藤さん家の敷地の一部を占領したままで、ブルーがいなくても、彼はもともとインドアな犬であったのであまり違和感もなかった。犬小屋の中を覗けばまだブルーが居るような気がしたのだ。けれどいつかこの赤い屋根のボロもなくなってしまうのだろう。

 

しかし、とふと思う。そもそもあのボロになぜブルーは生涯住み続けたのだろう。あの優しい佐藤さん夫婦ならば新しくて快適な家を与えてあげそうなものである。あるいは、いっそ室内犬にしてしまうか。ブルーはおとなしかったのだし、そのほうがいろいろ都合が良さそうなのに。

 それほど、ブルーの城は荒れ果て、荒屋だったのだ。けれど、よぼよぼブルーと荒屋からはなんとなく風情が感じられたのが不思議だ。そしてブルーはあの家を気に入っていたと思う。

 

 

 

(2015年のワードファイルより救出)